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| 第一回 その趣旨と雑感 | 第二回 三木鶏郎を聞こう | 第三回 『或る雨の午后』 |
| 第四回 『浅草の歌』 | 第五回 『マンボ・アフリカーナ』 | 第六回 『南の花嫁さん』 |
| 第七回 『東京ラプソディー』 | 第八回『高原列車は行く』 | 第九回 『君恋し』 |

子供の頃、我が家では常にラジオやレコードから音楽が流れていた。
曲は母が選曲していて、買ってきたレコードをくり返しかけながら家事をこなしていた。それらの情報源は、昼間やっていたラジオ番組だったと思う。
当時流行していたフォーク&ニューミュージックが中心で、近所に住んでいる井上陽水ファンのおばさんの影響で、母は陽水のファンになったりした。私が「荒井(松任谷)由実」を知ったのは母の影響が大だった。母はどちらかというと「新しもの好き」だったので割と、流行に敏感だった。今では当たり前になっている女性のファッション的な事は、ほとんど試していたが、他の友人たちに異端視されていたところもあった。
父は、そんなに上手ではないが、よくいろんな歌を口づさんでいた。まだ、カラオケが8トラックの時代。休日に気に入った曲のレコードを買ってきては、今度の余興で唄う歌の練習を風呂に入りながらよくしていた。
傾向は「唄う映画スター」の曲が中心だった。かつて、青春の日々を暮らす、ふるさと離れた大阪で俳優を志し、関西の有名劇団の門を叩きかけたが挫折したという過去を持つ父は、その当時、憧れだった俳優さんたちが、時折、出演しているドラマを観ながら、懐かしい青春の日々を思い起こしていたのかも知れない。 そんな、父のレコードコレクションの中にフランク永井のデビュー10周年記念盤として発売された『魅惑の低音−フランク永井ベストヒット』(昭和41<1966>年 ビクター)という2枚組のLPレコードがあった。
一枚目にはフランク氏のオリジナルを、二枚目には叙情歌を中心に構成、収録されていた。 その2枚目に収録されていたのが、『君恋し』(詩 時雨音羽 曲 佐々紅華 昭和36<1961>年)だった。
乱るるこころに、うつるは誰(た)が影
君恋し、唇あせねど
涙はあふれて、今宵は更けゆく
だが、この曲、私にとっては「大晦日の大掃除テーマ曲」として記憶される曲になる。このタイトル通り、家族全員で大掃除をする時に、BGMとしてこの曲が我が家では流れていた。
だが、よく考えてみて、この曲が大流行した昭和36年に、私の両親は同僚として出逢っている。「その思い出を大切にしたい」という両親のささやかな想いから、毎年この曲を幾度となくかけていたかも知れない。
話は変わって、数年後、中村田とカラオケに行った時に、中村田がフランク氏の曲を立て続けに唄ったことがある。彼にも、同じ様な体験を持つ事と、自分の声が低いので「フランク氏の曲が声に合う」と言うことを、自分なりに発見したというのである。選曲本に目を通しながら、中村田が私に聞いた。
「二村定一って誰?」。
「ああ。エノケン(榎本健一)の映画によく出てる、なんかニヤけた感じのするオッサンと違うかなぁ・・・」と、私は自信無げに答えた。
中村田は「いや、どんな人か知らんけれど、<君恋し>のオリジナル歌手らしいねん」と続けた。
その時は、対して興味もなかったのでそのままにしておいたのだが、しばらくして、少しだけエノケンに凝ったことがあった。その時にエノケンの相棒として紹介されている二村氏の経歴を知ることになる。
明治33(1900)年6月13日、山口県下関市に生まれた二村氏は、宝塚少女歌劇の大ファンだったことから、大阪医科専門学校(現、大阪医科大学)退学後上京。
浅草オペラの根岸歌劇団に入団、ここで榎本健一(エノケン)、柳田貞一、中村是好と出会う。浅草オペラの若手として注目され、大正末期から日蓄(ニッポノフォン、現在のコロムビアの前身)、日東等のレコード会社から、「お伽歌劇(童話をオペレッタに翻案したもの?)」や、「流行小唄」「流行唄」(歌謡曲という単語発生以前の呼び方)の吹き込みを始め、レコード歌手の道を歩み始める。 昭和3(1928)年、コロムビアとビクターから発売された『アラビアの唄』『あお空』(訳 堀内敬三)が大ヒット!。同年にビクターから発売された『君恋し』も大ヒットして、一躍スターダムにのし上がり、『東京行進曲』(詩 西條八十 曲 中山晋平)を唄った佐藤千夜子と人気を2分して、「元祖 日本のジャズシンガー」の名誉を得る。 レコード歌手として活躍する一方で、昭和5(1930)年11月にプペ・ダンサント。翌6(1931)年12月ピエル・ブリアント(後のエノケン一座、榎本健一劇団の母体となる、オペレッタ、レビューの劇団)に、エノケン、中村是好、柳田貞一らと結成、参加。舞台出演を続ける。 ピエル・ブリアント結成当時は、エノケンと2枚看板だったのだが、途中で自分の劇団を結成するために退団したり、他の劇団に移ったと思えば、また、エノケン劇団に復帰をくり返していた。歌の世界では、二村氏の口を大きく開けて、言葉が伝わるように唄う、「楷書の歌い方」に影響を受けた藤山一郎等の時代となり、オペレッタは流行歌としての魅力を失い淘汰されて行き、二村氏も徐々に過去の人になっていった。 元々、酒豪だった事から戦争中は「酒が思う存分飲める!!」というので満州に渡るが、終戦となり、命からがら引き揚げ、下関の収容所生活を経て、再び歌手として復帰。だが、そのステージのほとんどがいわゆる「ドサ回り」だった様で、その長い荒んだ生活のために、かつて、人々を魅了した歌声には生彩が無かったという。 昭和23(1948)年4月にエノケン劇団に復帰するが、同年9月12日に肝硬変のために死去。48歳だった。
このムーディーな詩は時雨音羽(しぐれおとわ)。明治32(1899)年3月19日、北海道利尻島の生まれ。日本大学法学部卒業後、大蔵省に勤めながら詩作をして、伝説の大衆雑誌『キング』(大日本雄弁会講談社刊、現、講談社)に、中山晋平が曲(楽譜)をつけて、大正14(1925)年に発表した『出船の港』、大正15(1926)年に発表した『鉾をおさめて』が、昭和3(1928)年に藤原義江の歌でビクターレコードから発売され大ヒット。同年に大蔵省を退職して専属作詞家として、ビクターと契約。その入社第一作となったのが、この『君恋し』であった。後にコロムビア・キングへ移籍。戦時中は軍国歌謡を多く手がける。昭和55(1980)年7月25日没。
(作曲の佐々紅華に付いては、次回以降紹介するので、ここでは割愛することをお許し願いたい。)
昭和36(1961)年。この曲がリバイバルヒットした際、この詩人はどのような感慨を得たのだろうか。 この年の1月に佐々紅華は亡くなっている。ビクター草創期に活躍した先人をたたえるための発表だったのか?。それとも、フランク永井のアルバム企画で叙情歌を歌う曲目の中から選ばれ、実演でも好評だったので、シングルカットされたのだろうか?。 解説によると、詩人が神田のカフェーの、「帯の崩れを気にしながら、体をくねらせて歩く、若い女給(ウェイトレス)のなまめかしい姿にヒントを得て、彼女たちの想いをイメージして作詩した」ものだという。
昭和36年盤の方では、3番の歌詞は「時代にそぐわない」という理由で、歌われていない。
元々ジャズシンガーとしてデビューしたフランク永井の持つモダンな雰囲気と、寺岡真三のJAZZYな編曲。そして「モダン事始め」とも言える描写をした時雨音羽の詩世界は、30年経っても色あせることなく、人々に愛唱されることになり、この曲はその命を延ばすことになる。
出発は同じオペレッタだったが、時代にうまく乗れたエノケンと、時代に乗り切れずに不遇の道をたどった二村定一。この二人になにか運命の明暗を、そして、現在ではCM等で有名になった、エノケンの『洒落男』『あお空』のオリジナル歌手の皮肉さ。その名誉を守れなかった悲哀を感じずにはいられない。
この二村定一、フランク永井、共に、その歌手生命の終わり方に、なんともやりきれない哀しさを感じながら、最近ではこの曲を聴くようになってしまった。
私が古関裕而のファンになったのは、いつ頃の事だったろうか。
母の愛唱歌『とんがり帽子(鐘の鳴る丘 昭和22<1947>年)』『フランチェスカの鐘(昭和27<1952>年)』(作詩はどちらも菊田一夫)の作曲者だったからか?。
数多くの歌謡曲のヒット作品を手がけた反面、『日本のマーチ王』の異名をとり、『東京オリンピックマーチ(昭和39<1964>年)』等数々のマーチも手がけ、中でも、野球に関する次の3曲。阪神タイガース応援歌『六甲おろし』(詩 佐藤惣之助 昭和11<1936>年)、読売巨人軍応援歌『闘魂込めて』(詩 椿三平 補作詩 西条八十 昭和39<1964>年)、夏の高校野球のテーマソング『全国高等学校野球大会の歌〜栄冠は君に輝く』(詩 加賀大介 昭和23<1948>年)は発表以来30〜60年経つのだが、その輝きを未だに失わず多くの野球ファンに愛唱され続けている。
小学生の頃の土曜の夜のお楽しみは、家族で見る『音楽の広場』(NHKテレビ、黒柳徹子、芥川也寸志 司会)で、この番組中に古関先生はゲストで時折出演され、少年少女合唱団の歌う「鐘の鳴る丘」の伴奏をオルガンを自ら演奏されていた。この古関先生の姿を見た私は「オルガンを器用に弾きこなす、おじいさん」を生まれて初めて見て、大変ショックだったのと同時に「校長先生がオルガンを弾き、生徒たちが歌っている。自分の学校が、こんな校長先生の学校だったらいいのになぁ・・・」と、一人夢想したりしていた事を思い出す。
明るい青空 白樺林 山越え谷越えはるばると
ランランララーン ララランランランランラーンラン
高原列車はランランランランラン 行くよー
昭和29(1954)年2月に発売されたこの曲は、岡本敦郎の朗らかで清潔感あふれる歌唱、丘灯至夫の若さみなぎる詩、古関先生のアップテンポながらものびのびとした雰囲気の曲が見事にあいまって、若者たちを中心に受け入れられて、広く長く愛唱されていくことになる。
この曲を初めて聞いたのは、いつ頃のことだったかはっきりとした記憶はない。JR東海のTVCMで使用されていたり、カラオケで中村田や、会社の上司が歌っていたのを聞いた事はある。
高校生の時に当時の友人達と夏休みを利用して、信州方面へ鉄道中心の旅行に行った。その途中、長野県の小諸駅からディーゼル車に乗って山梨県の小淵沢駅へ続く小海線を旅したことがある。
この歌詞の様に「楽しい出会い」等はなかったのだが、鉄道の日本一高いところを走るこの列車は、ディーゼルエンジンの「ゴォゴォ」と言う音が車内に響きわたりながら、ゆるやかな傾斜をゆっくりと登っていく。車窓から見えた山並みを背景に、緑がのびのびと辺り一面に広がるのどかな風景は今でも私の目に焼き付いている。
昨年、岡本(敦郎)先生がインタビューで「高原列車等の僕のレパートリーは、スナックとかの夜の雰囲気とはそぐわないからカラオケで歌われる事って少ないんじゃないかな・・・」と言っておられた記事を読んだことがある。が、実際、割とスナックとかでも歌われているようで、店のお姉さん方に聞くと「この曲を歌う年齢層も広いし、結構、歌われているよ」とのお答えが何軒かで帰ってきた。やはり、朗らかで楽しい曲は愛され続けるのである。
この曲は、私が後に「昭和のモダンビート」を初めて意識した曲である。 実は、私は長い間、昔、母がラジオからエアチェックしていたカセットテープと、藤山先生のCDで聞いていたのだが、原盤を初めて聞いたのは、2〜3年前に、このページの主なネタもとでもある『SP原盤による戦前・戦後歌謡大全集』(1993年。日本コロムビア、テイチク、ポリドール、キング、ビクター。CD12枚組)のテイチク編に収録されていたのを聞いたのが最初だった。
君ひとり 逢えば行く 喫茶店(ティールーム)
楽し都 恋の都 夢の楽園(パラダイス)よ 花の東京
大学卒業後、ビクターに入社して、流行歌手と声楽家兼ディレクターの3足の草鞋を履いていた藤山一郎だった。この時は、ポップス(ポピュラーの翻訳物)を数多く歌っていたというが、私は聞いたことがない。一度聞いてみたいので、ビクターから発売していただきたいものである。。
「藤山一郎の契約が切れる!」の報に各社で争奪戦が水面下で繰り広げられたようだが、お互いの力を知り尽くしていた古賀政男率いるテイチクに収まったのが昭和11(1936)年の事である。そして、同年6月にこの歴史的なレコードは、満を持して発売された。
何とも楽しいこのメロディーは、古賀政男が藤山一郎をイメージして書かれたと言う。作詩は西条八十門下の新進詩人で、この後も数々のヒット曲を手がける門田ゆたか。曲が先に出来て、門田氏がそれに歌詞を当てはめていったと聞くが、そのモダンさたるや、言葉が流されずにリズムと一緒に弾んでいるのがうかがえる。
この曲の大ヒットを受けて、P・C・L(東宝の前身)で、もちろん藤山一郎主演で映画化された(1936年 伏水修監督)。
現在、アコーディオンでこの曲を練習している。なかなか思うように行かず、少々苦労している。弾いていても気づくことだが、「♪た〜のしみやこ〜」のところで曲調が明るくなる。
「恋人と待ち合わせをしていて、逢って、喫茶店に行って<さぁて、これからどうしようか?>」という楽しいデートの様子が、曲が明るく(転調)なることによってうかがえる。しかも耳を澄ますと「古賀メロディー」には珍しくバイオリンや口笛が効果を盛り上げるように使用されていて、音造りに苦労の後がうかがえるような気がする。
聞き始めの頃はそんな事を考えずに「曲が明るいから、ただ単に歌っていた」と言う印象の方が強かったように思う。だが、なぜか不思議なことに、私たちぐらいの世代の人でも、一概にはいえないが、大抵はこの曲が歌えるのではないだろうか?。というのも、私の中学生時代に、この曲の替え歌がなぜか流行した記憶がある。歌詞はあんまりくだらなかったので覚えていないのだが、そのような珍事が私の身の回りに確かにあった。
それで、この曲を知ったという友人も存在する。余談だが同様に『青い山脈』『高校三年生』も、修学旅行や遠足のバスの中で歌っても、少なくとも私の身の回りで違和感がなかったのはなぜだろうと、今更ながら思う。
だが、やはりそれだけポピュラーだったのは、「紅白の最後に<蛍の光>を指揮するおやじは何者なの?」から始まって、家族でたまたまナツメロ番組(『思い出のメロディー』や『にっぽんの歌』)などを見ていたりして、その中で、印象に残った歌があったりして、それをなんとなく口づさんでいた、と言うのが正解なのではと、自分を顧みて思うのであるが、皆様はいかがでしょうか?。
昔、日本の映画界では、唄う映画スターが大勢いた。
自分が主演している映画の主題歌を唄い、会社としても相乗効果を狙ってのものだったと思われる。そんな中でも成功したと思われるのは以下の人々である。
思いつくままに書けば、高田浩吉(大江戸出世小唄)、石原裕次郎(風速40米)、鶴田浩二(傷だらけの人生)。現在では、歌手の方が本業の感がある小林旭(ギターを持った渡り鳥)等々。一方、女性では倍賞千恵子(下町の太陽)、李香蘭<山口淑子>(夜来香)、高峰秀子(銀座カンカン娘)などがいる。
だが、昭和歌謡史上にも、歌手としても確固たる足跡を残したという意味では、高峰三枝子の名前がまず挙げられるのではないだろうか。
『湖畔の宿』(1940.6発売 詩 佐藤惣之助 曲 服部良一)をはじめ、戦前数々の ヒット曲を飛ばしたというのは、テレビでよく唄う姿を見ていたので知っていたのだが、約10年間、声帯の異常から歌が歌えなくなったりした苦労を経験していたというのは、つい最近知った。1990年に亡くなられるまで、精力的にコンサート・テレビで活躍され、昭和57年(?)頃から始まった国鉄(JR)の『フルムーン・パス』のCMで上原謙と共演して、「ラブロマンスの二人の幸せな老後」的な設定は、当時のファンを喜ばせたのと同時に、このチケットの売り上げにも多大に貢献したと聞く。
散りそで散らぬ 花びら風情 隣の村へお嫁入り
おみやげ〜はなあに 籠の鸚鵡(おおむ) 言葉もたったひとつ
いついつまで〜も〜
昭和17(1942)年12月に発売された牧歌的なこの曲は、長い間、古賀政男の作曲として信じられてきたが、任光(どなたかご存じでしょうか?)作曲の中国ではポピュラーな曲だと言うことがわかった。
ここで、この事に関する証言を、高峰氏の甥にあたる埼玉の鈴木高之様からおうかがいしたので紹介したい。
帰国してコロムビアの人に話してから大騒ぎになりました。
当時古賀先生はまだ健在でしたが『南の花嫁さん』が何と盗作だったら大変な事になるでしょう。その後、いつのまにか作者不詳に変わりました。
さすが古賀先生の威光ですね。コロムビアのスタッフが随分はしりまわって穏便に済ましたようです」
つまり、高峰氏自身が訪中の際に「あら『南の花嫁さん』のメロディーだわ」と最初に気が付いたのである。
この曲の詩人である藤浦洸を私が知ったのは、幼い頃、家にあった雑誌の広告に登場する「どこかのおやじ」というイメージしか無く、両親から「この人が藤浦洸だよ」と言い聞かせられていたのだが、なぜそのようなことを言ったのか?。父に確認のためその辺のことを今回この文を書くにあたって聞いてみた。すると、「よくテレビとかに出てたやろ」と言われたのだが、私にはまったく覚えがない。
藤浦洸の訃報(昭和54年3月13日)を私が聞いたのは、珍しく父と二人で夜食を食べに行ったうどん屋で、テレビニュースが報じていたと言うことを覚えている。この時、父は「あ。藤浦洸。死んじゃった・・・」とつぶやいた。当時、小学校5年生の私は「ああ。あの広告の人ね」と言う感じだったが、父にとっては相当インパクトのあったタレントだったらしい。
『チャイナタンゴ』に続いて2回目の登場の藤浦氏の略歴に少し触れておきたいと思う。
明治31(1898)年9月1日、長崎県の平戸に生まれる。同志社大学神学部(フォークの神様 岡林信康の大先輩)、慶応大学仏文科を卒業。小説家を志し、少女雑誌『若草』『令女界』に少女小説、音楽物語を執筆する。その間、浅草オペラの舞台に立つなど多彩な活動をする。
昭和5(1930)年、英語とフランス語に堪能なところから、コロムビアのエドワード文芸部長の私設秘書となり、ジャズソングの翻訳を手がける。その間、職業詩人を志し、昭和12(1937)年に服部良一の推薦で書いた『別れのブルース』(唄・淡谷のり子 12月発売)での大ヒットで一躍世に出る。
その後、『懐かしのブルース』『東京キッド』『一杯のコーヒーから』などのヒット曲の作詩を手がける。戦後はNHK『二十の扉』『私の秘密』の回答者として出演して、お茶の間の人気者になった。今もポピュラーな曲に『ラジオ体操の唄』(藤山一郎 作曲 1959)がある。
聞き始めの頃「藤浦洸さんって、東京生まれじゃないかな?」と何度か思ったことがある。
と言うのも、洒落た歌詩、どことなく垢抜けていて、異国情緒が漂っている。同時代の作詩家の中でも、こと【モダン】というキーワードを語るには、どうしても藤浦洸は避けては通れない道のような気がするのである。それは、その経歴を見てもわかる様に、留学経験があったのかは知らないが、藤浦氏の場合は【モダン=西洋文化】をしっかりと身につけていたのだろうと、私なりに推理してみる。
少し話は飛ぶが、明治の文豪二葉亭四迷は、小説を書くときに、まずロシア語で書いてみて、それを翻訳して日本語の文章のリズムに合わせて行く、と言う方法を取ったと聞く。ならば、藤浦氏の作詩術もこれに近い方法だったのではと、いらない推理が広がっていくのだが・・・。
前出の鈴木様が、藤浦氏についてのエピソードを送ってくださったので紹介しておきたい。
どうです、この詩人ならではの感性!。今の作詞家連中も学んで欲しい!! 『南の花嫁さん』は中国のメロディーに上手に日本語の詩をのせて、見事に何の違和感もなく聞かせてくれる。 特に「♪おみやげ〜は なあに〜」の所は、高峰氏の「可愛さ満点」さが伝わってきて、当時の若い男性の心をとらえて離さなかっただろうと思われる。私が同時代人だったら、おそらくファンになっていたに違いない。というのも最近、高峰三枝子主演の映画の一場面をみた。なんとも楚々として、品のあるお嬢さんという印象を受けた。
だが、私が初めて見た高峰三枝子の映画は、手塚治虫の漫画『火の鳥』(1977年 東宝 市川崑監督)の映画化の女王卑弥呼役だった。西太后も顔負けの残酷な独裁女王で、当時10歳ぐらいの私は、『3時のあなた』の「司会のおばさん」とのギャップが大きくて子供心に傷ついて、そのイメージがなかなか抜けなかったのだが、この事を知ってからはだいぶ、高峰三枝子に対する見方が変わった。
私が織井茂子を思う時、ご多分にもれずどうしても『君の名は』『黒百合の歌』を思い起こしてしまうのは、古関裕而ファンだからであろうか。
なぜか私の中では「織井茂子=君の名は」の図式が出来上がっているのだが、みなさんの中でも私と同意見の方は少なくないはずだともおもう。
昨年の1月に惜しくも亡くなられた事は記憶に新しく、実に残念に思う。
やはり、古関ファンの私としては、どうしても『君の名は』の主題歌、挿入歌はすべて知っておきたいファン魂から、織井氏のCD『SP盤復刻による懐かしのメロデイ 織井茂子−黒百合の歌』(1994.1月発売 コロムビア COCA−11428)を購入した。
動機は、平成2(1990)年の始めに『古関裕而大全集』(1989.10月発売 コロムビアCA−4301〜4307)というCD7枚組を購入して聞いていた。
その中で『花のいのちは』(『君の名は』第二部 主題歌)は、岡本敦郎と岸恵子の唄うオリジナル盤が収録されていたのだが、『君は遙かな』(『君の名は』第三部 主題歌)は、佐田啓二(中井貴一のおとうさん)が亡くなっていたため、別の男性歌手が唄っているステレオバージョンが収録されていた。だが、このCDを手に入れたことで、「織井&佐田バージョン」を晴れて聞くことが出来た。
だが、このCDに私の心躍らす新たな「モダンビート」の発見を見たのだった。
私のドレスの中には、小麦色のバネがある、どなたに抱きしめられよと、はねかえすばかりよ
ア ・ フ ・ リ ・ カ ー ナ ー !!
マンボ踊るにゃ、靴はいらぬ、伊達者やきどったお方は情なしばかりよ・・・
この曲は昭和30(1955)年12月に発売された。おりしも、この年、日本はマンボブームにわきかえり、マンボの創始者ペレス・プラート率いる、彼の楽団が来日して、日本のラテンオーケストラとしてその名は現在伝説になりつつある見砂直照率いる東京キューバンボーイズと共演したのも、マンボブームの熱狂に拍車をかけることになる。
作詩・作曲者の米山正夫は、戦前は『森の水車』(詩 清水みのる 歌 高峰秀子 1942)。戦後は『南の薔薇』(詩 野村俊夫 歌 近江俊郎 1948)や『車屋さん』(作詩・作曲 米山正夫 唄 美空ひばり 1961)、『三百六十五歩のマーチ』(詩 星野哲郎 歌 水前寺清子 1968)などなどの大ヒットメーカーとして知られ、その芸風、ジャンルの広さでは他の追随を許さなかったと言われた人である。
初めてこの曲を聴いたときに、その巧みなマンボビートと織井氏の力強い歌いっぷりに、すっかりノックダウンさせられた。
特に間奏の部分では、マンボダンサー(見事な脚線美の女性)の細かく刻むように、ビートに合わせてステップを踏む姿が思い起こされるだろう。もう無茶苦茶カッコ良くて、シビレテしまう!!!。
米山氏の歌詩も、冴えに冴えまくり、次から次へと言い寄ってくる客をクールにあしらう踊り子の心情を「これでもかこれでもか」と暴力的なぐらいの情熱で迫ってくる。もう、何とも言えないぐらいにウキウキさせられて、自分でも気づかない内に、踊らずにはいられない様な躍動感をあたえてくれる。
貴方のこころも躰(からだ)も、焼きつくすばかりよ
ア ・ フ ・ リ ・ カ ー ナ ー !
なんと言っても、こんなにオリジナリティーあふれるマンボが、この国で作られ、歌われていたという事に、驚きを隠せないでいる。
「歌手で国民栄誉賞を受けた人は?」
こういう質問をされて、だいたいの人は「美空ひばりって、確かもらってたんじゃ・・・」と答えることは出来るだろう。
「実はもう一人いるんだけど」と言われると、だいたい答えに困るんではないだろうか。だが、昭和30(1955)年以前生まれの人なら「藤山一郎!」と答えることが出来るのではないだろうか。
私が藤山一郎に目覚めたのは二十歳の頃だった。
会社の先輩に初めて競艇場に連れていってもらい、舟券を的中させ、帰り道に寄ったレコード店で、当時大ファンだったロックバンドのCDと、何を思ったのか『藤山一郎−酒は涙か溜息か』と『伊藤久男−イヨマンテの夜』の2枚のCDを、ほんの気まぐれから購入した。
それまで、私が藤山先生に抱いていたイメージというのは
「紅白歌合戦の最後に、出演者全員で唄う”蛍の光”の指揮を笑顔でするおやじ」
「スジャータコーヒーフレッシュのCMに出ているおやじ」ぐらいのものだった。
確かに『丘を越えて』『酒は涙か溜息か』『青い山脈』『影を慕いて』『東京ラプソディー』『長崎の鐘』は歌番組でよく唄っておられたので知っていたが、取り立てての深い印象は無かったと思う。
確か、この前後にタモリが司会をしていた番組に、ゲスト出演されていたのを見たのが最初だったのではないだろうか。その時、初めてその、一生懸命朗々と唄う姿に感銘を受けたのが、直接的な動機だった。
以来、SP盤やグッズを集めるまではいかないが、藤山一郎のファンになった。
時は流れ、平成5(1993)年8月21日土曜日未明に、82歳で亡くなられた。
その訃報から数ヶ月後、NHKテレビで『藤山一郎メモリアルコンサート』という番組が放映され、数々の「藤山ソング」を、ゆかりのある歌手の方々が出演し唄っておられた。
中でも、ダークダックスの唄う『浅草の唄』に私は感動した。
どこのどなたか知らないけれど、鳩と一緒に唄ってた
ああ、浅草のその唄を
作詩はサトウハチロー。作曲は万城目正。編曲は浅井挙曄(たかあき)。いずれも『リンゴの唄』に関わった人々である。
この曲は、当時大人気だったコメディアン、清水金一主演の映画『シミキンの浅草の坊ちゃん』(1947,4,22封切り、松竹)の主題歌である。監督は『そよかぜ(主題歌 リンゴの唄、そよかぜ)』を始めとする歌謡映画の巨匠で、後に東映時代劇を多く手掛けることになる佐々木康。
「もしも、漱石の<坊ちゃん>が浅草の焼け跡に現れたら」という設定のこの喜劇映画は、残念な事に製作会社(松竹映画)にフィルムが残っていないらしいので、現在、見ることは不可能なようだが。
勇ましく躍動感あふれるリズムの中に、人々が、この浅草の街で生き生きと生きている描写を、的確に表現している。
出だしの「♪強いばかりが男じゃないと、いつか教えてくれた人〜」と言う部分に私はしびれた。初めて浅草で遊んだ時に、この曲の舞台である六区界隈を歩いた。なんの下調べもせずに行ったものだから迷いに迷ったのだが、後にビートたけしの「浅草キッド」を読んだ時に、その迷った辺りの事が書かれてあったので、大いに役立った。
そこで、片っ端からその辺りの店屋に入って「ひょうたん池ってこの辺りですか?」と言う具合に聞いてみたりした。だが、そのほとんどの建物が姿を消し、常磐座は解体中だったので、往時を偲ぶ事は不可能に近かったが、木馬亭(奥山)が歴史を感じさせてくれて、唯一の救いだった。
以前、知り合いの人(江戸っ子 昭和10年生まれ)に浅草のことを訊ねた事があるが、「僕らが、にぎやかな浅草を知ってる最後の世代じゃないかなぁ・・・」と話されていたのを思い出す。
実際、浅草寺からの人の流れが、六区まで届かなくなったのは、テレビが普及して映画や舞台が斜陽化した事が原因だと言われている。そういえば、何となく、新世界(大阪市)や大須(名古屋市)も、寺の門前町が発祥で、その後、大興行街に発展するのだが、時代に逆行していく様に衰退していった様は、哀しいぐらいに似ている。
鳩も寝たかな梢の影で、月が見ているもえぎ月
ああ、浅草のおぼろ月
目を閉じてこの曲を聞けば、実体験が無くとも、古き良き頃の浅草の青春が”思い出”として心に刻まれていることに気づいた。その知らないはずの思い出を、時として懐かしむのも悪くはないだろう。
昭和14(1939)年といえば、映画界では、不朽の名作『風と共に去りぬ』が発表され、日本の歌謡界でも、塩まさる(89歳、現役!)の『九段の母』、岡晴夫の『上海の花売娘』、東海林太郎の『名月赤城山』などの、後世に残るヒット曲が多数発表された。 日々、戦雲が濃くなり「この年を境に、レコードの原料も底をついてきた」(福田俊二編 <写真で見る昭和の歌謡史 戦前戦中編J>柘植書房刊より)。
この年の1月、テイチクレコードから発売されたこの曲は、ディックミネの甘い歌声に乗って大ヒットした。
君と僕とは、寄り添って、雨の舗道を、濡れながら
二人愉しく、歩いたね
作詩は「和気徹」名義の島田磬也。作曲はこの曲がデビュー曲で、後に石原裕次郎の曲を多く手がけることになる大久保徳二郎。編曲は杉原泰蔵。この曲にひかれたのは、そのアレンジの見事さにある。ちなみに、ディックミネ、杉原泰蔵はジャズ出身。大久保徳二郎もテイチク専属バンドのサックス奏者だったというから、ジャズソングといわれたのだろう。
私とこの曲の出会いは、昨年、NHKラジオ『ラジオ深夜便』の「日本のうた、心のうた」のコーナー「日本のジャズソング集」であった。つまり、このページの『にっぽんのメロディー〜チャイナタンゴ』を聞いたときと同じ時期ではなかっただろうか。
軽やかな中にも、一抹の寂しさが見え隠れする、メロディーラインも確かな、タンゴのリズム。伴奏の中心となる、アコーディオン、チェロ、バイオリンが、まるで良く出来た会話の様に、そのコンビネーションの妙に酔いしれてしまう。 特にアコーディオンの間奏がムードを盛り上げる役をにない、その他の楽器もそれぞれ軸となって、効果を発揮している。
私事で恐縮だが、2年ほど前からアコーディオンを購入して、てなぐさみがてら独学で弾いて、ささやかな楽しみの一つにしている。その辺に起因して、新旧を問わず音楽で、アコーディオンが使われている場合は、耳を澄まして聞くようになった。
この曲は和製タンゴの名作にふさわしい。
♪あかるーいナショナール、あかるーいナショナール。
みんな、家中、なーんでもナショーナール
と言う曲をご存じだろうか?。これは、松下電器提供のテレビ番組の冒頭に流れる企業タイトルなのだが、この曲を作詞作曲した人こそ、今回とりあげる「昭和モダンビート」の巨人、三木鶏郎である。
昭和21年から29年にかけて放送された、伝説的ラジオ番組、NHK『日曜娯楽館』の中の「冗談ヒットメロディー」のコーナーからは、数々の名曲が生まれた。その反骨精神あふれる痛烈な風刺は、世間から支持されたが、 政治的理由から(?)終了した。幸いにも、当時の録音テープがCD化されていて、今もその一端を知ることが出来る。
知らない間にピカドンで、知らない間に水爆病
これはあきれた驚いた、なにがなんだかわからない
これが平和と言うものか?!、あちら任せの平和論
それと「トリロー文芸部」と呼ばれる、ブレーン(頭脳)集団には、当時20代前半だった、作家の永六輔、野坂昭如、五木寛之。詩人の吉岡治。アレンジャーとして、神津善行、いずみたく、越部信義、宇野誠一郎らの、後に時代の旗手となった人々が参加していたことも、特筆すべきだろう。
色川武大(阿佐田哲也)は『なつかしい芸人たち(新潮文庫)』の中で、三木鶏郎の音楽について、次のように語っている。
「・・・・・服部良一が、この方面(和製ジャズ)の鼻祖のように言われているが、(略)影響の大と言う点で、戦後の三木鶏郎がもっと評価されてしかるべきである。(略)三木鶏郎の音楽がなければ、日本のテレビ、ラジオに代表される軽文化は、現状に比べて、数段遅れていたのではないだろうか・・・・・。」と、言い切っている。
鶏郎先生自身は「服部良一さんの曲は、戦前から好きだった。(略)曲調がさっぱりしていて、僕自身行くなら、こっちの方向かなぁ、って学生の頃から思ってた。(CDジャーナル1994年8月号インタビューより)」
この「モダンビート2大巨人」をつなぐキーワードは、音楽面がジャズならば、詩の部分は落語だったと、それぞれ語っておられる。村雨まさを(服部良一)も三木鶏郎も、叙情的な美しい詩を書くが、コミックソングとなると、村雨氏は泥臭い(関西弁で”ベタ”)物が多いが、三木氏の詩には、思想とか複雑な問題が、
スマートさの中に含まれているような気がする。それだけ、言いたいことが、目の前にバーン現れていたのだろう。
まぁ、その時々の時代性とかがあって、「唄は世につれ、世は唄につれ」とか言われていて、仕方がないのかも知れないが、今の世の中、風刺とかが足らないのではないだろうか?!。しかも、50年前にこんな曲があったのかと言う事に、驚きを感じるのである。
和製ジャズを語るのに、どうしても避けて通れないのが、大阪が生んだ偉大なる作曲家、服部良一である。自ら『響友会』というジャズ研究会を仲間の作曲家を集めて、主催していたのは評価に値する。その伝記は2度ほどテレビドラマにもなっている(財津和夫、小堺一機主演)。
『東京ブギウギ』『買物ブギ』は笠置シズ子との関西コンビで、個人的には泥臭くて好まないのだが、灰田勝彦の『東京の屋根の下』。藤山一郎の『銀座セレナーデ(作詩 村雨まさを名義で服部氏の作)』は、私が
マーチ系では、古関裕而、江口夜詩は外せない。古関氏は『東京オリンピックマーチ。』江口氏は『憧れのハワイ航路』で目覚めた。だが、二人とも戦時歌謡、いわゆる軍歌の作曲者の代表選手になっていて、戦後、それぞれの苦悩をなにかの本で読んだことがある。古関氏はNHKテレビ『音楽の広場』によくゲスト出演されていて、オルガンで自分の曲を弾かれている姿が印象的だった。
歌手で言えば、江戸っ子の藤山一郎。日系二世の慶応ボーイ、灰田勝彦の二人は、モダンボーイの代表格だろう。ほかに、伊藤久男、ディックミネ、林伊佐緒、。これらの人々はテレビを見ていて、私の幼な心に、「モダン=東京ビート」を刻んでいった。
残念なのは、中野忠晴、松平晃、楠木繁夫、岡晴夫。これらの人々は、私が生まれる前か、幼い頃に亡くなっているのである。余談だが、松平氏の息女、福田和禾子氏は作曲家として活躍されている。
女性では、二葉あき子、暁テル子、平野愛子、笠置シズ子、淡谷のり子、高峰三枝子らがいる。
と、まぁ、書いてみましたが次回からは、ちゃんと曲ごとに書いていきたいと思います。