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『マリリン・モンロー ノーリターン』(2005.10.28 金)

あなたは野坂昭如(あきゆき)を知っているだろうか?。

昭和30年代〜平成にかけて、文壇とサブカルの世界を行き来し続け、その評価はここ10年で再評価が高まっている、現代の生きる伝説のひとつと私は捉えている作家、歌手、タレント、国会議員などの顔を持つマルチアーティストである。私と同世代(1960年代生まれ)、もしくは10歳前後の年齢の人ならば、トレンチコートを粋に着こなし、サングラスといった、フランスのノワール映画から出て来た様なファッションは、少なからず当時のお父さんたちに、『小沢昭一の小沢昭一的こころ』(TBSラジオ)と共にオヤジカルチャーを支え続け、顔と名前とタレントしての野坂の活動を記憶しているだろう。

粋でダンディーなオヤジがキャバレーで

♪ソ・ソ・ソクラテスか、プラトンか
ニ・ニ・ニーチェか、サルトルか
みんな悩んで大きくなった!!
(女性コーラス)そうよ大物よ〜

<詩 能吉利人 曲 桜井順>

という、サントリーウィスキーのCMをご記憶されている人も多いと思う。当時、小学校一年生の私は、このカッコイイオヤジに魅せられ、中学進学の時に、宮川左近ショウ、許冠文(マイケル・ホイ)と共に、いつか弟子入りしようと、その作品も知らず、数曲の歌とCMなどのコメディアン、ヴォードビリアンとしての活躍しか知らずに真剣に思っていたのは、恥ずかしながら、不惑の年齢を迎えようとしている現在に至るまで、密かに保ち続けている拙い野望の原点のひとつになっている。しかし、もっとわかり易くいえば、今から約20年前(1988=昭和63年)に、あのスタジオ・ジプリ、高畑勲監督によってアニメ化された『火垂るの墓』の原作者であり、昭和30年代から、『戦後派』と呼ばれた青年作家の牽引力の反面、常に異端であり続け、終戦前後の頃を舞台にした人間の物語を書き続けている反骨の人であると私が知るのに30有余年かかった。

母も父も、今でいうサブカルチャーを引きずった大人だった。昭和30年代はロカビリーに魅せられ、父はバイクを乗り回し、時代の風を受けた父は演劇青年で俳優になろうと若気の至りで思い立ち、母はフアッションなどの流行に敏感で当時はまだ、坂根田鶴子、田中絹代、左幸子ぐらいにしかいなかった女性映画監督になりたいと思っていた。そんな俳優志望のコックさんと映画監督志望のウエイトレスが上本町六丁目のレストランで出会ってしまえば話は早く、半年後、一緒に住み始めたのは、時あたかも昭和37=1962年の秋のこと。今も昔も変わらないのは男女の常であった。5年後に一人息子が生まれ、そのバカ息子が、今、こうして、シコシコとホームページを書いている訳だよお立ち会い!!。両親とも最新の映画とか歌謡曲の話ばかりしていた。不思議と映画に連れていってもらっても、試写会中心ながら、アニメとかを見に行った記憶は少なく、洋画ばかりで、父はコックという職業柄のせいかフランス映画で、母はなんでも映画を見る人だった。

子供の頃、お節料理の材料などの珍しい食材を求めるために、京阪沿線千林駅&地下鉄谷町線千林大宮駅下車の千林商店街に年末に買い物に行くのが、我が家の恒例行事だった。その時、母は千林商店街と今市商店街の分岐点辺りで、不意に

「あそこに今から行くけど、ダイエー(現 トポス 今年で閉店予定)があるやん。ダイエーはここから始まって、大きくなってん。大きくなったで思い出したけど、昔は野坂昭如って知ってるやろ?。あの♪♪ソ・ソ・ソクラテスか〜、プラトンか〜のおっちゃんも、この辺に住んでてんて。どこかは知らんけど(≧∇≦)/(関西弁)」

といったのを思い出し、なんとなく野坂先生が住んでいたというだけで、子供心にワクワクする街だった。おそらく、関西の基準点といわれて、バラエティー番組で良く、千林商店街が街頭インタビューで取り上げられるのは、下町であり、庶民の匂いがして、人情にあふれる街だからに違いない。長さは日本でも有数の長さを誇り、ここに来れば絶対になにか求めている事が見つかる。

23年前の昭和57=1982年5月7日金曜日に、母はこの街にほど近い某大学病院で逝った。

その20年後、絶望を抱えながら私は一年間(2002〜2003年)、この街の老舗葬儀店で働き、少しだけ息を吹き返したのは、この街に来て、様々な人の慈悲心に触れて生かされていて、それが今に至るんだと考えている。おそらく、私はこの街に来なければ死んでいただろうし、これからもいくつもの夢と絶望をくり返しながら、辛くなったらこの街に来る事になるに違いない。そもそも、千林で働きたいと思ったのは、野坂先生と司馬遼太郎先生が昭和20年代に会社と同じ町内に住んでいたらしいという事がわかったからであり、当時は、私自身も死体写真の愛好家であり、根本敬の特殊漫画のファンでもあったからに他ならない。だが、現在は進んで死体写真を見ることはなく、たまたま、そういった写真を目にしたら、ついつい、ご処置の方法を考えてしまうようになった(←ブラックジョークながらマジ)。

♪マリリン・モンロー、ノーリターン。ノーリターン、ノーリターン

この世はもうじきおしまいだ、あの街この街日が暮れる
せつないせつないこの胸を、どうするどうするあなたなら

この世はもうじきおしまいだ、おれたちゃ毎晩おまつりだ
結んでひらいて蓮の花、まんだらまんだら朝ぼらけ

この世はもうじきおしまいだ、桜ちるちる菊もちる
よくばりババアは長生きで、カワイイ娘は早死にだ

マリリン・モンロー、ノーリターン。ノーリターン、ノーリターン

<詩 能吉利人 曲 桜井順>

最近、歌を聴いたり、映画を見て泣く事が多くなってきたのは、老化なのだろうかと考える事が多い。この歌を初めて聴いた20歳の頃は、子供の頃の『野坂観の延長』だったのだが、今をときめくクレージーケンバンドと共演したライブ盤『青山246深夜族の夜(スペシャルゲスト野坂昭如)』(P-VINE PCD-5617 2000=昭和75年9月2日の青山CAYでのライブ盤。他に幻の名盤解放同盟<船橋英雄、根本敬、湯浅学>の因果ビデオ上映&トークセッションや、通好みなDJイベントが開催された)を買い求め、発売1年後の2002年の年末頃(葬儀師見習い中)に聴いた時に驚いた。それはこの曲の中に、かの『般若心経』に通ずる思想を垣間見たからに他ならない。おそらく、そう感じたのは、当時の職業柄だろうと安易に想像もつく。人としての在り方のすべてがここで述べられているといった印象を受け、帰りの電車の中でうつむきながら「ありがたやありがたや…」とくり返しながら泣きっぱなしだった。

しかも、詩人が能吉利人(ノー、キリスト)である。能吉利人とは、野坂先生の長年の相棒で作詞作曲プロデューサーにして、あの冗談工房時代の盟友の桜井順氏である。そういえば冗談工房といえば、あの巨匠、三木鶏郎先生(猪名川タイムズ時代からの読者にはおなじみ。昭和戦後サブカルの巨匠)の創設した永六輔、吉岡治、五木寛之、神津善行、越部信義、中村八大、宇野誠一郎など、後の時代の寵児たる創作者たちが腕を磨いた梁山泊に一貫して流れていた『社会派の血と反骨の魂』を痛切に感じ取る事が出来る。三木先生の『これが自由というものか』(歌 榎本<エノケン>健一)などは、今のすべての政治家議員先生方に聴いていただき肝に銘じて欲しい一曲だ。


最近の私の中の事情(2005.09.10)

みなさんはARBというバンドをご存じだろうか?。俳優として活躍する石橋凌率いる、かなり、男気度の高いロックバンドである。

なぜ、こんな話をいきなり始めるのかというと、前の会社で知り合った地元の友人にして、ある意味カンフー映画研究の相棒でもあるKZとある意味カルト趣味な友人のKSにに誘われて、3年前にKZバンド(仮)にメンバー兼マネージャーとして加入したのであるが、ちょうど、その頃の当時の私の気分と、ARBの音楽世界が、一致してしまい、そんなにコアではないながら、 深く思い入れを持って聴くようになった。

それまでは、正直言って、ARBとハウンドドッグの区別が二十歳過ぎまでは付かなかったし、ナツメロとパンクロックとかテクノ(現代のテクノに非ず)を同じ地平で聞いていて、よく訳のわからない曲などを追求していた私にとっては、ARBは『原田美枝子の旦那のバンド』といった様な印象しかなかったし、中学時代、にわかに『ダディーズ・シューズ』がヒットして、クラスの桜井君が髪型に似ていたので、みんなから『石橋凌』とあだ名を冠されていたぐらいの極めて薄い物で、存在などを認識していても、何曲か聴いていても別に心を打つほどの物でも無かった。むしろ、実際にARBの曲を聴くまでは『ゆるい反社会的バンド』といったイメージで捉えていたのは二十代のほとんどを通好みのインディーズロックバンドに捧げて、『自由な表現』ばかりを追い続けていた仲間たちと、私の大好きなバンドは対極に位置しているところからバカにしていた。

私は友人に啓蒙されると、その対象に対して、自分なりにトコトン研究して、曲はもちろん関連する文献などに至るまで聞き込んでしまうという習性を持っているのは、その事によって、人生がいくつも変転していくのを経験して常に感じている。と、いうのも、振り返ってみると、かつて、若干の芸能に携わった経験は、すべて、自分が発見したわけではなく、友人、恋人、先輩に啓蒙された物ばかりで、見方を変えれば、自分で発見出来ないのかも、と、考えたりする事がある。ながら、その反面、発見して啓蒙する事も、よくよく考えれば多々ある。どちらかというと、お笑いなどの芸能人などがブレイクする直前に当てるのは、結構自慢ながら、私の身の回りの人々も割と、同じ様な事を言っているので、恥ずかしくなって来て言うのをやめた。割と大阪には、「あのギャグを考え出したのは私だ!!」という人が、よく上司だったり先輩だったり友人だったり、芸能人の知り合いの知り合いだったりする確立が高いのは、府民性みたいな物ではないだろうか?。

話は横道に逸れたのだが、30代を迎えて知る趣味や嗜好という事は、何ら変わりもなく、不思議と「昔から知っておけばよかった…」と後悔する事はほとんどない。ここ数年の私の中のブームは、例えば、ARBもそうだが、上村一夫の書く劇画だったり、ムード歌謡だったりする。その前はパソコンだったり、デザインだったり、テレビゲームだったり、サッカー(Jリーグ)だったり…。といった具合に、その時期その時期の気分みたいな事が大きく作用する。

つまり、その時期的な引力とでも言うのだろうか、たまたま以前は絶対に好まなかったであろう事柄を、分かり易く言えば、友人や知人、付き合っているGFの影響などから、自分も取り入れ、深く興味を示す物ならば、それは決して途切れる事はないのだが、ほとんどに飽きてしまう。だが、根っこと言うのは、必ずあって、私は長く民謡をやっていた物の、酔っ払った時には、絶対に民謡を歌うことはなく、昔から聞き込んでいる歌(ナツメロ、ロック、歌謡曲)などを歌っているので、訳あって民謡界を追放になっても、別になんとも感じないし、むしろ、自分の好きな事を続ける事こそが、私の道である事にようやく気が付いたりする。

ニセ笑福亭/少年部と言うユニットの相棒のL.a.h.に「ARBのコピーバンドやってるねん」というと、「アカンなあ…」と言われた。それは普段の生き方から『反社会的(メジャーよりマイナーのくだらない事に対して愛を持って行動する)』を標榜しているニセ笑福亭/少年部の理念では、ARBは図らずも『ゆるい社会派バンド』といった評価だったからに過ぎない。

例えば、3年前に、就職して、その会社でKZや、もっと早くに知り合っていたら絶対にコンビを組んで漫才師になっていただろうUGや、O老師、FT師などの先輩方、KSや長唄をたしなむお姉さんやO老師夫人をはじめとするいつも行く行きつけの店の方々、想い人と知り合って、KZいうところの『何年かぶりの間賀の華の時代』のBGMがARBの曲だったりする反面、決して古くならない現在進行形の歌である意味は確かにある。それと、逆にリアルタイムで聞かなかったから、すんなりと私の心に染み入って来たという見方も出来る。

逆に自分よりも年の若いロックバンドなどでも、気になる存在はたくさんいる。Coccoとか、サンボマスターは、時代を変転させる力をその作品や表現姿勢から受け取る感情が存在するし、流行中の少女漫画『NANA』からロック魂を嗅ぎ取り、この夏に、自分の中のロック魂を体現するために革ジャンを来て、先輩や友人からひんしゅくを買ったり、久々に数々のロック映画を再見したり、発見したり、セックス・ピストルズを少し、根を詰めて聞き直してみたりなど、人は思い出したり、その中から新しい物を獲得しながら変化していく物だと気が付かされる。

でも、以前、このホームページは歌謡曲に対する思い入れを中心に書いてきたのだが、よくよく考えてみると、この世というか、この国に『うた』という表現形式が生まれた頃より、そのテーマは数千年まったく変わっていない事に気付く事が出来た。

今の私にはなにもない。なにもない『無』であるから、なかなか生まれにくい状況ながら、その現況を『有』にしようと必死でもがいている状況だ。

人になにかを伝えることは簡単なようで難しい。私も10年ぐらい、ホームページも3年ぐらいサボっていたが、少しずつ、もう一度、なにかを表現したいという行動と気持ちが、ジワジワとリンクしつつある今日このごろを過ごしているのである。


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